§ 石井ゆかり:14th-AZさん

14th-AZさん chap.1 -石井NP日記
14th-AZさん chap.2 -石井NP日記

石井さんのこのインタビュー企画には
壮絶な経験をした人がしばしば登場する。
そんな人たちの描写に共通して用いられる形容がある。

爽やかさ。すがすがしさ。

自らの歩みの困難さに耽溺することなく
率直に経験を語るその様子を指して
そのように表現したのだろう。
こんな一節を目にする度、僕は思う。
この筆者は何故そんな素敵な人たちに出会えたのだろう。
筆者が注意深く選んでいるのは間違いないと思うが、
この企画に登場した人々はどこかで筆者を知り、
信頼に足る「何か」を交わしたからこそ、
こんな壮絶な経験を言葉にする気になったのだろう。
結果として文字になる文章は興味深いものではあるけれど、
その背景にあるコミュニケーションのあり様を想像するにつけ、
この得難い邂逅の不思議さに惹かれてしまう。

僕は比較的楽な人生を歩んできた。
大した苦労もしていない。
そんな僕がAZさんの前に立つとき、
乏しい僕の経験はまるで役に立たない。
そんな自らの素性を嘆いてもしかたないわけで、
結局、僕が持つ覚悟を相手に伝えるためには
感性と知性のすべてを動員して
徹底して聞き、受け止め、相手の輪郭に丁寧に触れる、
こんなことしか出来ない。
もし僕がインタビュアーだったとしたら、
AZさんはこんなに率直に語ってくれただろうか。

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直感を大切にする人なんだろうな。

AZさんの描写を最初に読んだ時そんな感触を持った。
言葉を鵜呑みにするのではなく、表情で読み取る。
現象の背後にある、本人さえ自覚していない原因へ
丁寧にアプローチしようとする。
このあたりにこの人のスタンスが集約されていると思う。
そして、次の一行を読むころにはその感触は確信に変わっていた。

『書いているものに自分の本心とのギャップを感じることも増えて』

この感触が今回の文章の起点だと思う。
妊婦検診時のアロママッサージがターニングポントと表現されていたけれど、
僕には上で引いた一行のほうが重要だった。
ここに集約されている真剣さがなければ
マッサージを受けた時に「衝撃」を感じることはないだろうし、

『事実と違うことが文字になることに違和感を感じた』

などと言い出すことはなかっただろう。
後述されるどうしようもなく悲しい経験を経て、
それでも体に触れたい、触れられたい、
そんなふうに自ら願ってしまうその真剣さ。
これがなかったら、ベースにある清々しい明るさだって
ライラックに例えられるような深みは持たなかっただろう。

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10年以上前の話。僕は音楽をやっていた。
僕は自分の能力を信頼してはいたけれど、
それを十全に開花させるために必要な
時間、資金、そして自信が欠けていた。
特にこの根本的な自信の欠如は僕を徹底的に貶め、
ついには音楽をやめる決断をさせた。

残念ながら、僕はずっと否定されて育った。
僕の両親は僕の能力を常に過小評価し、
否定し、卑下し、罵倒し、時には殴り倒した。
だから、僕はいつだって自問自答しなければならなかった。
僕は生きていていいのだろうか?
音楽をやっていていいのだろうか?
この問いに答えてくれる人なんて誰もいなかった。
でも、僕の周囲にいた人たちには
この問いに答える誰ががいた。
僕はそれがたまらなく羨ましかった。

何かを創る、作る、あるいは表現する人には
その活動を肯定的に見守ってくれる人が
絶対に必要なのだと思う。
自分の能力を信じている自分を裏付ける
自分ではない人からの一言が。
逆に、そんな人が一人でもいれば
例えその一人が自分の家族であったとしても、
自信が揺らいでどんなに心細いときだって
再び確信を持つことができる。

『こんなに大事にされたことがない、
 こんなに大切にさわってもらったことはないです、
 という言葉でした。』

この言葉がどんなふうにAZさんを救ったのかに思い至った時、
激しく羨ましく思えた。
しかし、同時に、僕は考えなければならなかった。
AZさんの場合、そこに至るまでに半端ない苦労があった。
それを乗り越えてその場に立っていたからこそ
この言葉を受け取ることが出来たはずだ。
僕はそこまで大きな努力をしただろうか?
単純に比較できないのはわかっているけれど、
僕のなめてきた辛酸なんて大したものではない。

音楽を止めて以降、
それでも僕は芸術全般と関わることを止めなかった。
今でも、ミュージシャン、デザイナーやライターに出会う。
今の僕は僕の欲しかった「他人」になるべく、
彼らの作品を徹底的に味わう。
背景に興味を持ち、
些細な部分に目を向け、
なぜそうなったのかを理解し、
感じたことを出来るだけ正確に「言葉」にする。
誰も指摘したことのないような新しい発見を伝えたいと
感性を解放し、考え続けている。

結局、僕は自分がされたかったことをしている。
だから、こんなふうに言うAZさんには共感する部分がある。

『「私は、本当は、人にさわりたいんだ」』
『もっと本質的な部分でその人を見据えたい、関わりたい、』

じつは、僕にもそんなふうに感じることがあった。
ある、ではなくて、あった、なのだ。
ある出来事をきっかけに、
触れてはいけないものがあると知り、
今はそう願うことを止めた。
僕の場合、相手に触れることは
相手を守ったり、癒したりすることには
繋がらないのだと思い知った。
それはとても悲しい現実だったけれど、
この現実の先にあるものを探さなければ
僕はなりたい自分にはなれない。

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『AZさんの「ひとりぼっち」の空虚さ』
『ルーツの曖昧さへの空虚感』

僕には両親がいるからこんな空虚は味わっていないはず。
でも、僕も父方にルーツをたどっていくことができない。
祖母は3度会った。4度目は葬式だった。
祖父は名前を知らない。
違う苗字を持っていたらしい。
でも、詳しい話は祖母の死とともに消えたらしい。
父はそのことをどうとらえているのか、
気にならないわけはないけど興味はない。

血統は嫌い。嫌悪。
血統からだけは自由になりたいと願っている。
不可能だけれど、少なくともそんなものに囚われるのはごめんだ。
血統というルーツは人を保障しない。
でも、気になるのならしかたないのだろう。

僕は「~家」とか「~一族」という言い回しが大嫌いだ。
吐き気がするほど嫌いだ。
親類と似ているとか言われるのがイヤだ。

『自分が親であることや主婦であることや会社員であることや、
その他諸々のことに追われて生きていると思うんです。
でも、私がトリートメントしている間は、
そういうものから守ってあげたい。』

こう思う人が血に囚われていたのはちょっと皮肉だと思う。
血だって単なる関係性の一部なのに。
カラダの特徴を引き継ぐことなんて、
人との関わりの中では些細なことなのに。
だから、この部分を読んだ時少し不安になった。

『突然、耳元で
 「私は、ひとりぼっちの母ちゃんのためにきたんだよ」
 という娘の声がハッキリ聞こえた気がしました。』

これによって血へのこだわりから解放されるのなら
悪くない美談だと思う。
でも、少し危険な匂いを感じたのも確かだ。
子供にあなたの関係性を背負わせないでほしい、
自ら判断し、選び取れる年齢になるまで、
すべての期待や願望から自由にしてあげてほしい、
そう思ってしまった。

今では恥ずかしい話だけど、
子供の僕は「天涯孤独」にものすごく憧れていた。
両親を含め、親族すべてから切り離されたかった。
近しい人がいないというのは徹底的に孤独だけれど、
反面、すべての人から等距離で平等な状態にある。
僕をとりまくすべての関係性を、
自分で選び、組み立てたかったのだと思う。

僕にとって両親は常に僕の行く手を阻む障害だった。
でも両親に頼らなければ勉強することは出来なかった。
だから深刻な自己嫌悪を抱えつつ、
ひたすら両親を利用した。

家族親族がいない状態というのは、
日本にいる限り絶対に苦しい。
とにかく家が借りにくいし、借金もできない。
でも、そんなことは単なる利害の判断であって、
物事の善し悪しを計るものではない。

日本の田舎にはルーツのハッキリしない人を受け入れる土壌がない。
僕はあの関係性の中で生きていくなんて耐えられない。
気持ち悪くて近づくことができない。
ルーツで分類され、差別され、
生活の不便さを盾に恫喝され、
理不尽なヒエラルキーに組み込まれ、
それを当たり前のように他人に強いる社会のあり方を
受け入れることなんてできなかったし、
許すこともできなかった。
だから僕はルーツから逃げるように生きてきた。
すべてを切り離すように。

僕の親は、僕を僕ではない「誰か」にしたかったようだ。
でも僕は僕以外の誰になることなんてできなかった。
自分に嘘をついて生きるなんて想像することすら出来ず、
彼らの期待する関係性を背負うことから逃れた。
僕は自分の好きなもの、好きになれるものになりたい。
自分が心地よいと感じられる所で暮らしたい。

そんなことを言いつつも、僕は自分に関心がない。
自分が誰なのか気にしないでいられる。
なぜなら僕は僕をやることに一生懸命だから。
僕が誰なのかを考えることは、
自分で自分の人生から離脱することを意味する。
客観視するその瞬間、
僕は僕から抜け出してしまうので
僕は空虚になる。
そんな僕を僕が見つめても
自分だと思うことなんてできない。

自分を知るという行為は、
自分で自分を客観視することでは満たされない。
自分が自分の中で感じる感触からイメージを起こさなければ
決して自ら生きている実感を持つことができない。
それは他人が見る自分とは異なっているだろうけど、
自分の感じる自分が自分にとっての正解なのだ。
その原則は生きている間ずっと変わらない。

どうしても他人の視点で自分を見たければ、
人に話しを聞くしかない。
できるだけたくさんの人に、
自分について語ってもらわなければ。
でもそれだって過去の自分の影を追っているに過ぎない。
結局、現在に関わる最前線の自分を知るのは
自分しかいない。

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『「くやしいから生きてやる」と思った、』

僕は、死ねないのだから仕方ない、と思った。
AZさんは積極的に生きようとし、
僕は消極的に生きようとした。
この差はとても大きい。
結局、この姿勢の差が受け取る結果の違いとして
端的に表れているような気がする。

僕はこの文章では、すべてを徹底的に自分に引きつけて書いた。
僕の乏しい経験ではAZさんに相応しく共感することが出来ない。
でも、上っ面の薄っぺらい共感でお茶を濁すことも出来ない。
だから、今の僕に出来る最大の敬意を持って
自分のやり方で真剣に切り込んでみた。

僕の文章が他人を救うことはないと知っている。
でも僕はAZさんのケースから学ばなければならない。

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話者の言葉と、筆者の言葉が滑らかに切れ目なく入れ替わる。
主観と客観のゆるやかな混合。

これって、実にこの筆者らしい表現だと思う。
これがぼろっと出てきたということは、
石井さん自身がこの話から少なからず影響を受けた証拠だと思う。

Posted by tomo at August 16, 2008 12:00 AM | REPORT |