さてさて、やっとこれについて書く時間ができた。
そういえば「俺様大会ブーム」てのがあったなぁ…と。あの当時、それらのカンファレンスが持つきな臭い危なっかしさが気持ち悪かったのだけど、それでも中村氏やらジョシュア・デイヴィスやらなんやらかんやらのハナシが聴ける貴重な機会だったので、居心地悪そうにして出かけていったのを思い出した。
まずは、問題意識の起点となる部分をちょっと長めに引用してみる。
自分の名前が世の中に拡まってしまった所謂「作家」的なデザイナーにとって、こういった場所で頻繁に露出して自分のアイデアをプレゼンしまくり、皆と共有されることで急速に消費されていく、というのは基本的に危なっかしい行為であり、そこらへんは本業に差し障りがない程度で「ほどほど」に留めておくのが宜しい、というのが共通認識であるように思う。
これに対してジョシュアのすごいところは、そのあたりは重々理解しながらも自分のアイデアが急速に消費/共有されまくるという事態に自ら進んで果敢に挑戦していくところにあったと思う。ただのデザイナーの自己顕示欲ということでは済まされない何かが彼の行動の中にはあったように感じる。何となく。
5年くらい前のある俺様大会(笑)で実際ジョシュアのハナシを聴いてみて感じたのは、そのなんとも形容し難い「使命感」のような意思だった。妙な確信を伴った落ち着きがあり、出し惜しみせず的確にネタを語るその姿勢は、確かに単なる自己顕示欲というコンテクストで理解するには不可解すぎる態度だったのはハッキリと憶えている。
で、当時の自分はそのジョシュア現象(?)に対して勝手に考えて結論を出していたのだが、今回取り上げた中村氏のエントリーを読んでその結論がそれほど間違っていなかったような気がしてきた。
…「そういうのは勿論わかってる。でもそもそも俺がネットで出てきたルーツは「共有」だから、これからも俺はあちこち出まくって共有しまくるよ。」とニヤニヤ笑っていたのを覚えている。…
俺様大会でプレゼンするだけでなく、自身のサイトでFlashのソースコードを公開することを含め、それらを「共有」と表現したそのメンタリティはとても面白いと思う。
作家というか汎用的な意味でのアーティストは、自己のアイデンティティを他者と差別化することでその存在意義を持つ。したがって、そのアイデンティティの具現である自身の作品、特にその表現スタイルは独占的に所有されなければならない。つまり他者の追随を許さない独創性の獲得と維持が、アーティストであるための絶対条件となる。
一方、ジョシュアが採っていた行為は、彼が取り出した表現の共有(あるいは独占的所有の放棄)ということになると思う。これは自分の取り出した表現を自らコモディティ化させる行為であり、差別化を本質的要件とするアーティストとは正反対の指向を持つ。このような彼のメンタリティはなかなか理解しにくいと思う。
逆に、アーディストが自身の独創性にレゾン・デートルを見いだそうとするのはわかりやすい。他者との差別化によって生まれる希少性が自身の存在価値を高めるからだ。したがって、アーティストであろうとする者は独創的で且つ斬新さを装うことで差別化をさらに推進しようとする。そのような人に求めるのと同じコンテクストでジョシュアのやっていることを見ると、『OFFF Report @ SHIFT』にあるような辛辣な書き方になってしまうだろう。
しかし、ジョシュアが採っている態度はアーティストのそれとは異なるコンテクストを持つわけで、「同じことを繰り返している=停滞」ということにはならないような気がする。彼は「共有」によって独創性による自己の差別化を意図的に放棄しているように見える。単に面白がってそうしているという可能性(例えば俺様大会的状況へのアイロニーとか)は否定できないが、たったそれだけの理由で自身のアイデンティティの拠り所となるものをあれだけ気前よく解放するとは思えない。
彼は自身が取り出した表現様式を意図的に解放することで、それが拡散し再生産されるプロセスで起こる汎化を、強い関心を持って見つめていると思う。アーティスト的な自我を持ってその現象を解釈すれば、自分の様式が解体され拡散してゆく現象すべてが彼の作品ということもできるだろう。しかし、恐らく彼はそんなことを考えているのではないと思う。上で彼の発言の二次引用をしたが、「共有」という言葉を意図的に選んでいることが考えても、彼が自身をアンチ・アーティスト的存在として自覚しているのは間違いないと思う。
恐らく、彼は自らを他から差別化する必要性そのものを感じていないか、あるいは意図的にそれを否定しているのではないかと思う。作品あるいはその表現様式を独占的に所有することで自身の価値を保つこと放棄し、それを解放することでむしろ積極的に消費されることを望み、自身の独創性が持つ価値(あるいは既得権益!)を稀釈化しようとしているように思える。
それは職業クリエイターとしては自殺行為であるように思えるが、私は逆のことを思う。彼は「共有」によって自身のアイデンティティという自縛から自由になれたのでないか、と。それによって、彼は「自分らしさ」を守る必要がなくなり、型破りであったり、逆に、表面的には平凡に見えてしまうというリスクを恐れる必要がなくなったはずだ。したがって、彼により生み出された作品が見慣れたスタイルを持つに至ったとしても、自身がよいと思うものを正直に「イイ!」と表現できる心理的な余裕というか、精神的な自由を獲得したはずだ。
だから、彼は何年も「同じこと」を語ることができるのだ。また、そうする権利を持っていると思う。よく考えてみると、かなりうらやましいことではないかと思う。
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