§ 生活のために必要な努力の一例。

なんか、久しぶりのエントリー。単に忙しくて寝る暇がなかっただけなのだが。

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今回のお題は、隊長のとこに上がってた『「各論全員否定」の社会学』っていうエントリー。

さて、今回言いたいことはたいしたことない。

あの文章にあれこれ文句を言うことはできると思う。でも、基本的に私はあそこに書かれていた内容を支持したいと思う。

その人なりの人生というものがあり、そこにプライドや生活があるのは分かるが、努力は正しい方向に向けて初めて報われるものなのだということを理解して欲しいんだけど。

ついでにもう一つ。

コメントについてたリンク踏んだら、なんか見たことのない日記にたどりついて、そこに書かれていた内容の一部にアレルギーがでたからだ。

琴梨らぶらぶ日記 - 「お前は俺がやろうとすることに文句があるのか」: [SONY]『ソニー本社六階』を読み始めました。

長期に渡って家庭を築くためには、安定した終身雇用が不可欠であることが、頭脳から欠落しています。
…(中略)…
私も未だ扶養家族はいませんが、彼らとは違い、そうした人達の苦悩や限界を、常に念頭において、物を書いています。

…ハイハイ、どうも(笑)。私、現在まさに中年。扶養家族3人。しかし、終身雇用が不可欠だと思ったことは一度もありませんが、何か。

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資本主義な世界に暮らしている以上、一生保証される金なんてものは存在しないのは子どもの頃から思い知らされていいたわけで、そんな安易な空想をしたことはない。

もし自分がそんなふうに考えるとしたら、何の躊躇もなく公務員を目指したと思う。んで、そうなれるチャンスは何度もあったわけだけど、現場で働く公務員のうざったさに辟易して、自分がこの職業を30年近く勤め上げるのは不可能だと自覚した次第。以降リスク・テイクしまくりの人生だが、基本的に後悔はしていない。子どもの養育にかかる費用と老後の生活費を計算して鬱な気分に浸ることもあるが、不思議なことに絶望はしてはいない。目の前に子どもたちがいて、彼女らの世話をしていると鬱々してイジケていることなんてできない。不思議なことに、父親としての自覚が芽生えてくる。

さて、これからがアタマの使いようだ。

無策なまま、ただ単にマジメに働き続けていることでカネが儲かるなんてそんな世の中に私は住んでいない。というわけで、どうやって動けば必要な額のカネが手に入るかを常に考え続けることになる。努力する際の基準は「どうしたら手元に残る現金を最大にすることができるか」ということ。

勘違いしちゃいけないのは、これは人生の目標じゃなくて、あくまでも生活の目標。私が語るのはおこがましいが、人生ってのはもうちょっと奥深くて味わい深いのでカネだけじゃすべては語れない。でも、カネで計れない分、誰にでも平等に「いいこと」が訪れるわけじゃない。これはホント。

で、カネの話に戻る。私の両親が過ごしてきた日々では、とりあえず真っ当に働いていればさまざまな人生のイベントがそれとなくクリアできる程度のカネが手に入るような世の中だったらしい。しかし、今はそんな状況はなくて、努力して働いた上で、知恵と勇気を振り絞ってカネに立ち向かわないと、必要な額のカネが手に入らないようになっている。

まず、借り手にとって比較的良心的な借金がしにくいわけで、とりあえず借金して地道に返すってのは事前に選択肢には入れられない。となると、ある程度まとまったカネを貯めないと永久にカネは手に入らないことになる。というわけで、イニシャルのカネが貯金できるまでは、手当り次第に働くことになる。

ここで変なアタマの使い方をして、最初から有利な条件で働きたいとか思うのは愚の骨頂。本当に有利な労働条件の職を最初からゲットできると思う時点でダメだと思う。とりあえず、目先の努力でゲットできる職に着いて、とにかく稼ぎ続けるしかない。その上で、キャリアができてくると、その路線でもうちょっとイイ感じの条件に出会えることがあるので、そこで乗り換え、と。それの繰り返ししかない。んで、ちょっとまとまった額の貯金ができるまでがんばる。カネは使わなきゃ減らない。

で、運用できる程度にまとまったら、おっかなびっくり運用してみる。現在の自分はこのステータス。やっぱり、ちゃんと勉強と実践が伴わないとカネは増えてくれない(今のところ、減ってはいないが増えてもないない…)。とにかく、生活てのはどこまでもハードボイルドで希望が少ない。しかし、決して希望がゼロになることもない。

ここで家とか買っちゃうという選択肢はあると思うが、固定資産は目減りするし税金も高い。私の場合、現金を減らさずに投資機会を確保することを選んだ。これはそれぞれの家庭の価値観なので、どれがいいとは言えない。うちの場合は、そんな感じ。

この選択が成功かどうかは終わってみるまでわからない。でも、それでいいと思う。

多分、私の子どもたちが成人し家庭を持つ頃は、今よりもさらに過酷な生活を強いられることになるだろう。変な風に責任感の強い人ならば、子どもを生まないことが親の責任だ、みたいに思う人もいるかもしれない。でも、それはおかしな発想であって。生きていれば嫌なこともたくさんあるけどそれなりに幸せを感じられることもあるわけで、生まれてきて幸せを噛み締めるチャンス(?)を与えて上げてもいいんじゃないかと私は思う。その上で、子どもに批判されるなら、ひたすら「ごめんね」と言いまくるしかない。無責任な言い方かもしれないけど、それでいいと思う。

で、私が親として子どもたちに見せたいものというのは、「過酷な生活の生き抜き方」って感じだろうか。過酷な状況にあって、それでも希望を失わずに生きて、どんな風に努力すれば自分の希望に近づけるのか、あるいは、どんな風に希望をあきらめたら新しい希望を見つけられるのか、という実例の一つになれたら、親としての私の役目は果たせたことになるだろう。

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最後にもう一度隊長のエントリーに戻ってみる。

自慢ではないけど、私は20代中頃まで「バロック時代のイタリア・オペラ」のオタクだった。で、このジャンルはヲタの総数が少ないうえに、たまにいるかと思えばキモいクラシック音楽ヲタだったりするので、まったく話が噛み合ないことが常態である。つまり、自分が本当に語りたい内容について語る相手が同業の研究者以外にいないという不毛なジャンルなのだ。

要するに、自分の得意分野ではほとんどすべての人とコミュニケーションがとれないという事態に陥る。で、不得意分野での勝負(?)を強いられ続けた結果、いろんな分野に興味が広がったという副産物が得られた。それでも、ヲタはヲタなわけで、一般的な男の子でなかったことは確かだと思う。

それが、変わったオヤヂ程度にこなれてきた(?)のは、結婚して子どもができててからだと思う。

子どもができると嫌でもいろんな人と会話する必要が出てくる。近所のママにはじまって、区役所の人、キモいジジイ、子ども好きなオバちゃん、ベビーカーを目の敵にするオッサン、平気で子どもを蹴ろうとするリアル厨房など、とにかくノン・ジャンルな会話を強いられる。これには相当鍛えられた。

というわけで、子育てが自分の成長に役立っているという、ありがちなオチにたどり着く。こんなありきたりな締めは気に入らないが、ホントにそうなのだから仕方ない。

ちなみに、なんでこんなことを書いたのかというと、先日、二人目の子どもがうまれたからなのだ。

Posted by tomo at April 11, 2005 8:13 PM | ESSAY | TrackBack |

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