§ ハブ電脳待望論者なんて修正してやる

R30::マーケティング社会時評: 年の瀬に思う来年~10年後のブログ界動向

「今頃何言ってやがる」てな感じだが、とりあえず今のうちにエントリーしておかないと忘れそうなので。

とりあえずR30さんのエントリーをあげておいたが、単なる思考のキッカケとして例示しただけなので深い意味はない。

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はっきりとした記憶はないのだが、ここ数ヶ月の間さまざまなエントリーをさまよっていたら、やたらと「スーパーブロガー待望論」を目にしたような記憶がある。まぁ、しょせん曖昧な記憶なので自分の気になることだけがフィルタリングされて蓄積されているのだろうが、少数でもそのような意見があることは確かなので、ちこっと意見を書いてみる。

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ハブ電脳

「ハブ電脳」てのは、要するに『攻殻機動隊 S.A.C. 2』に出てくる概念。しかし本家にはいい感じの解説がないので、とりあえずここから引用してみる。

Qualtima Esciousnica: ほらほら

  • ネットワークには元々存在しないはずの「中枢」
  • ネットワーク上で孤立した多くの意思の方向性を定義づけ、招き入れることである種の共同体を築き上げるあるホストの電脳。
  • これまではそれが小さな宗教団体やカリスマアーティストを中心としたコミューンといった程度だったが、最近難民のなかに、それら意思を懐柔し、滞留させておけるほどの能力を持ったものが出現した。
  • 指導者的立場といえるが、複数人かと思われる。

ちなみに「難民」てのは『攻殻〜』の設定上のハナシなので、ここでは無視してほしい。

どうだろう、なぜ私が「ハブ電脳」なんて概念を持ち出してきたか理解してもらえただろうか。上で引用した4項目のうちの2番目に、共同体のホスト電脳だという説明があるが、それがBLOGコミュニティでいわれるスーパーブロガーの概念に近いと感じたからだ。

「ポスト・キムタケ」という幻想

結論から書くと、スーパーブロガーがモデレート・プログラムであるなら理解できるが、ネットワーク上に生身を持った一個人としてのそれは必要ないと思っている。

まずスーパーブロガーたる彼・彼女が果たすべき事柄を考えてみよう。ネットワークに流通する大量の情報を読み込みつつ、さらに自らの判断によってそれらの選別と位置づけを行い、その結果を閲覧者にフィードバックし続ける。しかも、このフィードバックは閲覧者の間で機能する程度の質と量を備えている必要がある。

そもそも、このような作業は一個人が果たす役目としては荷が重すぎる。それこそ24時間ネットワークに接続し続けなければ処理できないだろうし、それを延々と続けていくのは困難を極めるだろう。破綻することが目に見えているのに、その存在を想定するのは愚かしい考えだと思う。

仮に物好きな誰かが出資したとして、専任集団を組織すれば物理的限界は超えられるかもしれない。あるいは扱うトピックを絞り込めば個人でも処理できる程度に情報をフィルタリングできるのかもしれない。恐らく、スーパーブロガーが構築するコミュニティは属する者にとっては居心地のいいものになるだろう。楽して比較的質の高い情報のセットが手に入るのだから。

しかしよく考えてほしい。そのような個人あるいは集団が持つであろう影響力の大きさは「諸刃の剣」である。銀英のラインハルトのような志を持った独裁者であれば一時秩序は保たれるかもしれないが、「善良なる独裁者」が去った後には混乱しか残らない。

それでも独裁者が善良であればマシではあるが、実際そうあることは難しい。多くの場合、強大なパワーを持った個人は堕落するか、その責務の重さに押しつぶされる。そうならなかった場合でも影響力を利用しようとする第3者が必ず現れる。

さまざまな意味でいい晒しものとなったキムタケをみていると、さらにその思いを強くする。ネットワーク上においてリアル「ハブ電脳」になろうとしたキムタケが抱いた虚しい野望は本人の自滅という愉快なイベントをもって潰えようとしているが、キムタケ以上に有能でパワフルな個人はいくらでもいる。

もし、そんな彼らが悪意をもって巧妙に集団を煽動(あるいは先導)したらどうなるだろう?意図的に悪意を持たなかったにせよミス・リーディングしてしまった場合、その影響の深刻さはキムタケの比ではない。キムタケの場合、本人の能力が低かったせいであの程度のお笑いで済んだが、あれが非常に優秀なアジテータだったら今頃はもの凄いことになっているだろう。

そう考えると自ずから答えは出る。ポスト・キムタケなんて存在しないし、存在すべきではない。

賢明なオピニオン・リーダーならばその問題について常に熟慮しているだろうし、実際彼らは常に一個人として発言し他のネットワーカーと対等な立場で対話しようとしている。そこに彼・彼女らの責任感を見ることができるし、そうだからこそ意見の相違を超えて基本姿勢に共感することができる。

ネットワークのコミュニティ

ここまでの論調を受けると、ネットワーク上の個人は自らの思考と責任において行動すべきだ、という結論に至る。ネットワーカーは自らの規範に基づいて自立すべきだと強く思う。私の個人的な意見からするとそれで十分な結論なのだが、そのような状態の欠点も同時に認識できるのでもう少し先へ話題を進めてみる。

個人が自らの責任において判断し行動するというのは理想的な状況だ。しかし、何のツールも持たずにそのように突き放された状態におかれると、混沌の中に放り出されすっかり混乱した状況に陥ってしまうだろう。結果、私たちはガイドとして機能するツールを必要とする。少なくとも、自分にフィットする情報を探すための手だてを欲する。

今のところリソースは限られている。ググるか、ガイド本・雑誌を読むか、近くにいるネットワーカーに尋ねるか、そうでなければ偶然見つけるか、恐らくそのうちのどれかだろう。それらの採り得る手段のうちで、最も手軽に、且つ広範囲にリソースへリーチできる汎用的な方法はgoogleを始めとする検索サービスの利用だ。したがって、検索サービスが進化すると潜在的にモデレーション機能を備えることになるという予想は核心を突いていると思う。

しかし現状はそのような理想からはほど遠い状態にあり、検索ツールはまだまだ未熟で狙った情報へ的確にアプローチするにはかなりのテクニックと労力を必要とする。ナヴァス・クラスのネットワーカーは自ら行動するためのスキルが不足しているので、容易に混乱し途方に暮れる。その結果、手近にアプローチできる先達をモデレータに見立てて各種情報へアプローチしようとする。

そのようなプロセスを経て、ネットワークの各所にさまざまな小規模コミュニティができるのは自然ななりゆきだと思う。従来であれば、メーリングリストやBBSを中心にコミュニティが形成されるのが一般的だったが、現在はそれにBLOGのコメントとトラックバックが加わった。

セマンティック・ウェブ

現状の問題点は、そのようなコミュニティを相互に連結する汎用的な手法が確立されていないことにある。それでは、その手法を確立するための手がかりがまったくないのかといわれると、実はそうでもない。

そこで登場するのは、Tim Berners-Leeが提唱する「 Semantic Web」である。(参考:The Web KANZAKI:セマンティックウェブの基礎としてのRDF

詳しい解説はW3Cの解説参考リソースを読むべきだが、大雑把にまとめるとこうなる。ある情報が位置づけられるべきコンテクストをプログラムが自動的に判別し、的確にユーザをナビゲートできるリソースとして体系化する。今のところRDFスキーマがベースとなってそれぞれの情報が関係付けられることになっているが、将来的にはどうなるかはわからないと思う。

現状のセマンティック・ウェブは天才の技にありがちな読みのよさとツメの甘さが同居しており、まだまだ一般に普及しているとは言い難い概念およびシステムではあるが、これがまちがいなくメインストリームにくる。

なぜなら、広範囲に分散するリソースをプログラムによって包括的に扱う手法がなくては、汎用目的で機能するリソースの構築はできないからである。ネットワークの成長は人の能率をはるかに凌駕するスピードで拡大しており、どのようなアプローチを採用するのであれ拡大し続けるネットワーク上のリソースを人力で仕分けていくのには限界がくる。結局、どう転んでもセマンティック・ウェブ的手法に落ち着かざるを得ない。

だからといって、人がフィルタリングした情報セットに意味がなくなるのかと言えばそうではない。明確なスタイルを持った個人が生成する情報セットは、オルタネイティヴなアプローチとして独自の価値をもって存在感を示すだろう。しかし、そのような情報セットを作るにしても、ネットワークに散在するリソースを包括的に扱う手法なしには、真に機能する情報セットを作成することはできないだろう。

将来像

セマンティック・ウェブが実際に機能する時、ウェブ上に散在する小規模コミュニティはそれぞれが蓄積している知的資産を相互に連結する手法を持つことになるだろう。このとき、それぞれのコミュニティはメンバーを固定する必要はなく、適切に機能できるだけの労力を費やせる(あるいはシステム化する)ならば集団である必要さえないだろう。

恐らくその時のネットワークの状況は、さまざまな立場からの発言が相互に交換・連結され、マクロ的視点からは矛盾を内包した混沌として映る。また、交換・洗練・淘汰のプロセスが甚だしく高速化される点を除けば、その状況はこれまでリアルで歴史的に交わされてきた知恵・知識の交換とさほど変わらないように見えるかもしれない。

この時、人が持ち得る意見は際限なく連結され対比されるプロセスを経る。その結果として生成される情報は、想像し得るかぎりのあらゆる視点からの意見が網羅されたカタログのようなものになるかもしれない。恐らく類型化され得る意見はカタログにすべて網羅されることになるだろう。

その中に自らの思考経路を見いだすプロセスは、自分自身が何者であるかという問いについて考えるプロセスに等しい。恐らく大きな不安と混乱そして苦痛をともなう作業になるだろう。

人はそのような困難を踏み越えてそこに自分自身を見いだすのだろうか。あるいは、自らの能力がプログラミングされ得る有限の可能性しか持ち合わせていないことに絶望するのだろうか。

今の段階でわかるのは、それでも私は私として考え行動しなければならないだろう、ということだけである。

Posted by tomo at January 6, 2005 11:52 PM | ESSAY | TrackBack |

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