はじめは彼らのような質を持った演奏を指向しているグループは数多くいるように感じられた。そして、スタンダードを演奏する数多くのピアノ・トリオを聴いてみた。それぞれに個性を持ち、それなりに楽しんで聴くことができる演奏に数多く出会うことができた。
その行為を通じてキースたちの演奏とその他のトリオの演奏には「小さな差異」があることに気づいたが、当時はそれほど大きな問題ではないように思われた。しかし、この「小さな差異」は時が経つにつれて自分の中で違和感として拡大し、今では根本的に異なったコンセプトに基づいた音楽であるように感じてしまうに至った。
演奏のクオリティだけなら彼らに肉薄することできるトリオは数多くある。しかし、その優秀な演奏技術と斬新なコンセプトを持つ質の高い演奏であるにもかかわらず、その演奏には何がが足りないという思いをぬぐい去ることが年々できなくなってきた。
私はキースたちの演奏のクオリティの高さに目を眩まされていたのだ。今思えば、当初からキースたちと同じ指向を持ったトリオはほんの少ししか存在しなかったのだということに気づく。(もちろん、私がしらないだけかもしれない。)
単なる愛好家や凡庸な音楽家と真にプロフェッショナルな音楽家の決定的な違いは、生み出される音楽の質とそこに含まれる情報の密度にあらわれる。キースたちの演奏はその両方において圧倒的であるが、他とキースたちとを決定的に分つ特徴は、演奏のクオリティではなく音楽から感じることのできるエモーションの強さにある。
多くの音楽家は、他と自分を隔てるための特徴づけに腐心するあまり、本来音楽が持つべき表現の核心、つまり作品に内包されるべきエモーションを失ってしまいがちだ。しかしキースたちは当初から音楽とサウンドの両方を通して引き出されるエモーショナルな体験にフォーカスしていた。彼らの演奏は、その演奏(あるいは作品)が何を伝えられるかという根源的命題へのチャレンジの軌跡である。
彼らは音楽ビジネス的にも成功し現代音楽シーンの中で確固とした地位を確立してしまっているので誤解しやすいが、彼らの指向を無視してしまっても聴けてしまうクオリティを持っている演奏を彼ら自身が提示し続けてきた結果であって、それ自体は彼らの目的ではない。
キースたちの演奏からサウンドや音楽の具体的なカタチしか聴くけない人にしてみれば、彼らの演奏は退屈に聴こえるかもしれない。ひとつひとつの特徴だけを見ていけは、それ自体はとりたてて言うほどユニークではないから。しかし、そのどこにでもありそうなカタチから、他では得難い何かを拾いだし、それをとても強く感じさせてくれる。
私の貧弱な表現力ではその「何か」を言葉でつかみ出すことができない。しかし、例え言い尽くすことができたとしても、それは単なる言葉でしかなくキースたちの演奏の核心そのものではない。結局、それは演奏を聴く(体験する)ことでしか感じ取ることはできないものであって、言葉で理解してわかったつもりになってはいけない。私たちができることは、ただ、ただ、聴いて感じることだけなのだ。
Thanks for signing in,
.
Now you can comment. (sign out)
(If you haven't left a comment here before, you may need to be approved by the site owner before your comment will appear. Until then, it won't appear on the entry. Thanks for waiting.)
サイン・インを確認しました、
.
さん。コメントしてください。 (サイン・アウト)
(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのウェブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)